닻올림dotolim에서의 경험
테츠지 아키야마 (Tetuzi Akiyama, 秋山徹次)
작년(2010년) 12월, 서울을 방문했다. 이번은 나의 첫 한국 방문이었는데, 진상태, 류한길 등 서울에 사는 뮤지션들이 투어차 몇 번 도쿄에 왔을 때 같이 연주하고 술을 마시다가 이루어진 것이다.
이야기를 바꿔서, 서울에 도착한 날에는, 조 포스터(Joe Foster), 홍철기, 진상태, 거기에 나까지 4명이 닻올림에서 레코딩을 했다. 그 다음 날 콘서트에는 사정상 참석하지 못한 조 포스터를 제외하고 전날의 세팅대로 나머지 3명끼리 연주를 했다. 그 날 연주는 닻올림에서 2개월에 한 번씩 정기적으로 열리는 시리즈의 14번째 콘서트였는데, 앞에서도 말했듯이, 도쿄에서 이와 비슷한 즉흥 연주 콘서트를 정기적으로 주최해 온 나로서는, 이런 현장에 참가하게 되어 매우 기쁘고 영광스러웠다. 매우 가까운 거리임에도 지금까지 좀처럼 갈 기회가 없었던 한국이었는데, 드디어 소원이 이루어진 느낌이었다.
이상과 같이, 나의 한국 여행은, 이번에는 내가 그들이 활동하는 곳에 가서 현지에서의 상황을 목격할 수 있다는 흥분과 그 현장에 직접 뛰어들어 참가한다는 열광에 힘입은 것이었다. 또한, 한 명의 관광객으로서는, 일본의 뮤지션들로부터 이미 소문으로 듣고 있던 한국 본토의 요리를 만끽할 수 있었던 것, 그리고 개인적으로는, 악기 상점이 많은 건물(역자 주:낙원상가)을 구경할 수 있던 것 등, 실로 즐거운 경험이었다. 진상태, 류한길 두 사람을 비롯해 도움 주신 서울의 실험 음악가 분들께 이 자리를 빌려서 다시 한번 감사드리고 싶다.
도쿄에서 2011.2.14.
Tetuzi Akiyama http://www.japanimprov.com/takiyama/
일본어 번역 : 오롤로
원문
dotolimでの経験 / 秋山徹次
昨年 (2010年) の12月、韓国・ソウル市を訪ねた。これはわたしの初めての韓国訪問であり、それはソウルに住む Jin Sangtae、Ryu Hankil をはじめとする友人の音楽家たちが、何度かツアーのため東京を訪れた際に、共演したり一緒に飲みに行ったりして深めてきた交流を通して実現された。
短い滞在日程は、1回の録音、それに2回のコンサートと慌ただしいものであったが、その内のレコーディングとコンサート1回ずつは、Sangtaeが借りているマンションの一室で行われた。彼がdotolimと名付けているこの部屋に入ってまず感じた事は、広過ぎず、狭過ぎず、わたしにとって丁度良い大きさの空間であるということであった。真っ先に思い浮かんだのは、東京・吉祥寺のマンションの一室を仕事場として使っていた大友良英が、そこをコンサート会場として解放したGRID605や、同じく東京の住宅街の中の小さな民家を、美術家兼音楽家の伊東篤宏がギャラリーに改造し、わたしと中村としまる等が 2000年から2003年まで、国内外からゲストを呼んで即興演奏のコンサートをシリーズ化していたオフサイト (Off Site) などとの類似性である。いずれの会場も、わたしのメイン楽器であるアコースティックギターを演奏するには最適な広さだったと考えるが、その理由は主にふたつある。ひとつ目は、そのような小さな音の楽器であっても、じゅうぶんに音を部屋中に響かせられること、そしてふたつ目は、観客との距離を極端なくらい、時には1メートル以下まで縮めることができることである。距離が縮まれば楽器の音もさる事ながら、演奏者自身の息づかい、それに最も大事なことであると思うが、即興演奏家が実際にどのような音を次の瞬間に発しようとしているのかという気配が、文字どおり身近に感じられる。とは言っても、その気配というのもは、演奏者の身振りから予測されるというのな単純なものではない。静寂を保とうとも、持続音を出し続けようとも、微動だにしない演奏家たちのたたずまいからでさえも、その背後から感じられる気配の事である。
さて、わたしがソウルに到着した日に、Joe Foster、Hong Chulki、Sangtae、それにわたしの4人でdotolimでレコーディングをしたのだが、都合のため、Joeは翌日のコンサートには出席が叶わず、前日のセッティングのまま、ライヴは残りの3人で行われた。それは、ここで2ヶ月に一度定期的に行われているコンサートシリーズの14回目であったが、前述のように、東京で同じ様に即興演奏のコンサートを定期的に主催してきた身としては、このような現場に参加させてい ただくのは非常に嬉しく、とても光栄に感じた。距離的にはとても近いのに、今までなかなか来る機会が無かった韓国ではあったが、やっと念願が叶ったといった感じである。コンサート自体は、長めのものを1セット行った。フィードバックを利用するため、わたしは敢えてギターの前にマイクを立ててもらい、ギターのサウンドホールのところを手のひらでマイクとともに包むことで、小さな音でのフィードバック・ドローンをコントロールし、それを受けて振動するギターのボディの表面に真鍮の棒を軽く当てて、持続的なノイズを作ったり、その真鍮の棒でギターの弦上の倍音ポイントをこすり、複数の高周波倍音の複雑な絡みを演出したりした。対するSangtaeが、いつもの彼のセッティングである、ハードドライヴ、コンタクトマイク、ミキサーを使用してのフィードバックや、細かいグリッチノイズを用いて不規則なビートを生み出し、独自の不安定さを強調する一方、Chulkiのほうは、アナログのレコードプレーヤーのターンテーブルの回転を巧みに利用して、それにどこからか拾ってきたような日常製品か何かの部分をこすりつけたり、それらを弓で弾くことによる不可思議な持続音など、あらぬ限りのヴァリエーション豊かな音を、マイクを通さずに生のまま創造していた。私がこの日のギター演奏において、最近割とやっているような、メロディを奏でて全体を抽象性を含んだ音楽的方向へシフトしていくのではなく、より即物的、音響的な側面を強調したのは、彼らの音楽が自然に持っている原始性に同調したいと思ったからである。わたしたちのトリオが発する音群は、絡み合うでもなく絡み、調和す るでもなく調和し、出来たばかりのどこかの惑星上で、大量に降った雨が集まってできた河が、繁った原始林の間を蛇行し、澄んだり濁ったりしながら、物語を創るでもなく創るよう流れていった。
韓国の実験音楽家の演奏を初めて聴いたときから感じていた事は、彼らの音楽はいわゆる「楽器」を使わないところにユニークさがあるということである。ただ、単に非楽器による演奏ならば、昨今他の西欧諸国でも行われているが、彼らの場合、規範とするべき前概念を打ち破るというような西洋的アプローチとはなんら関係なく見えるし、かといって、日本のノイズのように、ただひたすら音の暴力的エネルギーでカタルシスを得るといった方向でもなさそうである。した がって、その非音楽性が他国に比べて、よりクールに徹底しているように感じる。むき出しのハードディスクからこぼれる機械音、こすれ合って泣き叫ぶターンテーブルと日常品、あるいは、別の日に共演した Ryu Hankil のように、キーを叩く音が増幅されたタイプライターと、何かの電化製品から無理矢理取り出されたような機械部分の規則音の絡み合い。これらの相乗効果として、ときに暴力的人工音、ときに草原に鳴く虫達の様な、あたかも自然の一部に還元されてしまったかのような静寂を呼び、結果として、音楽・非音楽の境目を簡単に超えてしまう軽やかさが、ただひたすら格好いいと思った。一聴するとグシャグシャなノイズの中に、乱調を美に変換する要素を無限に孕んでいつつも、その美の甘い誘惑に吸収されることなく、また大音量の中に自己陶酔することもなく、渦巻く音槐のエネルギーを冷徹なまでに見据える視線を保っていられるのは、はっきりとしたヴィジョンを提供されなくても、ぶれたまま通り過ぎてゆく景色を、ただただ積極的に眺めていられるからこそできる芸当である。具体的なコンサートの内容は、dotolimのホームページからリンクしているYouTubeの映像を観ていただければ、その雰囲気が伝わるかと思うが、少人数ではあっても熱心に聴き入ってくれた観客のかたがたの在り方も含めて、現代の韓国・ソウルにおける実験音楽への熱い思いが少しでも伝われば幸いである。
以上のように、わたしの韓国へ旅は、彼らが地元でローカルに活動する現場に、今度はこちらから赴いて、現地でのその実態を目撃できる興奮と、その現場に自ら飛び込んで参加できる熱狂に支えられていた。また、ひとりの観光客としては、日本の音楽仲間からすでに何度も噂に聞いていた、本場の韓国料理を堪能できたこと、そして個人的には、楽器屋をたくさん抱えたビルを見学できたことなど、実に楽しい経験になった。Jin Sangtae、Ryu Hankil 両氏をはじめ、お世話 になったソウルの実験音楽家の方々に、この場をお借りして、あらためてお礼を申し上げたい。
東京にて 2011.2.14